空缶寂音
日記です。
言葉につくられる人より言葉をつくる人になりたい。
「言葉が人をつくる」は多分本当なのだと思う。ふざけて口にする内に言葉通りの人になるというのは、刷り込みなのだろうな。でも私の中にたくさんある筈の感情や思考が、言葉が足りないせいで出てこないことも多い。
言葉に出来るとは自覚が出来るということなのだろう。自覚が出来たら行動が変わる。行動が変わらないなら、正しい形で認識出来ていないか切実でないかだ。切実にお腹が減っていたら減り過ぎて死ぬ前に何か食べるものだ。切実で具体的な自覚は言葉に変換出来る、そこまで自覚出来ていれば行動に表れる。それは人が言葉をつくるという順番だろう。自分に近付く言葉をつくれるようになりたい。なりたい人に近付く為、私をつくる為に、刷り込む言葉を選ぶのも大切だけれど。
「形でないものを、形としてつくってるんだ」
と言ったとすれば、いまの人たちは
もしかしたらわかるかもしれない、と
受け止めるでしょう。
しかし、わかられたときには、太郎は、
次のステップに踏み出したと思います。
「あ、いっけね、抜けださなきゃ!」と。
わかられちゃったら、価値が増えない。
その恐怖感と、ずーっと鬼ごっこしてた人です。
その人がいま生きていたとしたら
やっぱり「俺を拝むな」「忘れろ」と言うと思う。 ほぼ日刊イトイ新聞 - 岡本太郎は、忘れてけっこう。
私には必要で誰かには見えない泉の水
人に言い訳したがる部分を消し切れない。気付いたら何をするにも自己弁護をつらつらと並べている、気付いて苦笑する、の繰り返し。懲りない奴だな…。
書くときは考える議題を一つに絞れるから書くのだと思った。これも忘れては苦笑して気付き直している事柄の一つなのだろう。それをまた忘れては思い出すのだ。あまり忘れることを怖がらなくても良いのかもしれないと思った。大事なテーマならまた繰り返し思い出して考え直せるだろう。思い出せないならそういう縁だったのかも、そう思うことも出来る。
私の今の生活はただの停滞そのものでしかないのだろうか?そう疑ってみたりもする。確かに人生を折れ線グラフにするなら横ばいか下がり続ける線でしかない日常だろう。でも私には必要な時間だと思ってる。そんなことを思うとき泣きそうになる。今私は必要な時間を過ごしているなんて、誰も肯定はしてくれないだろうし、誰に肯定されても嘘だと感じる類の、頼りない幻みたいな感覚だ。だからこんな所にしか書けない。それでも良いのだろう。別に良いのだろう。
今朝マザーウォーターを見た。格言のように深そうで印象に残る言葉が多い、私の好きなタイプの映画だ。私はそういう格好をつけた感じの「イイコト」を言う映画が好きだしイイコトを言う小説も大好きだ。人によっては馬鹿にするのだろうな。一々そういうことを思う。人に馬鹿にされることを悲しむ自分も馬鹿馬鹿しいと思うが、この凹み易さは自尊心の低下という根っこがあるものだからすぐは直せない。でも元々の性格でもないだろうからいずれは補強出来る凹み易さなのだろう。
私がいつから自尊心を失くしたのか、あるいはなぜ育てるべきときに育てることが出来なかったのか、それは分からないけど、ぐらぐらしたときに寄り掛かれる自分を少しずつ育てているのが今だと思っている。
本の整理をしてるけど進みが遅い。読みながら仕分けするのは大変だから、やはり今読めないし読む予定を立てられないものは諦めて処分しようと思う。今日瀬尾まいこの『強運の持ち主』という本当に好きな本を読んだので、そう気付いた。判断力が低下したとき、「本当に自分が好きなもの」に立ち返ることは何よりも大切だと痛感することが出来る。これも、忘れては繰り返し思い出す大切な指針の一つだろう。
連日続けている本の整理は、今日の残り時間で一通り終わらせたいと思っている。どれだけ進められるか、と考えるとつい「明日になってもいいか」と延ばしてしまう(ここ数日がそうだ)。だから今日でおしまい、ということにする。締め切りをつくるのはいいことだ。実際は締め切りが延び延びになることがあったとしても、タイムリミットのない頑張りなんて続かないとウタダも歌っていたし誰も彼も言っている至言だろう。
物を整理することで自分を整理しようとしていることは、自分探しなどと笑われなくても自分自身で分かっている。私には本当にそれが必要なのだ。架空の「みんな」に笑われてもそれが必要なんだ。いつかこの客観を装ったガン細胞のような自責の念を、追い出せる日は来るのだろうか。早く来るように進んでいきたい。
行きたい静寂
技術は道なのだと言う人がいた。技術は、何処かに至る為の必要最低の条件。技術自体が目的ではないけれど、なければ「何処か」には到達できない。それを聞いて私の深いところが納得した。「何処か」とは何なのか、今の私には上手に説明できないけれど、私には行きたい「何処か」があるような気がした。
技術は道だ。それは絵が上手に描けることだったり、美味しい料理が作れたり、或いは洗濯物が美しく畳めることかもしれない。
技術がないという悩みは、足りない技術を肉付けするという具体的な課題を生む。美味しい卵焼きを作る、最適な構図で写真を撮る、伝わり易い文章を書く。その課題には「出来るようになった」というゴールが見える。作れるようになった、撮れるようになった、基礎となる技術を一通り手に入れた。その先から、悩み始める問題があるように思える。私の道は今、どの方面にも続いていない。私は何処にも行けていない。
技術が何もなくこれから身に付けたいと思う初心者には、進む道をこれから作れる自由さがある。でも、技術がなければ悩むことすらできない問題にこそ、挑む価値がある。そんな気がするから、私は早く何処かに行きたいと、進む方角も分からないのに慌ててしまう。
行きたい「何処か」が胸の中にある。確かにある。好きなルートから、技術で道を掘り進めて、私はそこに行ける。私なら行ける、と思う。これが驕りだとしても、行けると思うから、行けるようになるのだろう。私は、どんな技術を手に入れたいというのか。どんな技術ならその「何処か」に行けると考えているのだろうか。正直、ずっと分からないままなんだ。この先分かるかも分からない。
「何処か」が何処なのかは、辿り着いて初めて分かるのかもしれない。自分という方位磁石の狂いを静めて、早く早く歩き出したい。早く決めるほど、深く進めるという気がして、泣きそうなくらい、焦ってしまう。
